部屋と自分を客観的に見渡すことができないと、悲しい結末になる
前回の投稿で、ダラけオーラという、背後から襲ってくる敵の存在を理解していただけたかと思いますが、今度は目の前の世界を考えてみましょう。
壁に向かって机を配置したケースを想定します。
これは、日本の住宅環境の中で学生生活を送った方ならば、最も多いケースと言えます。
確かに、部屋の生きたスペースが最も広く使えるため、一見して最も効率の良い置き方になる気がします。
しかし、これだと前述のダラけオーラが、最大級で襲ってくるのです。
なぜなら、背を向けている空間が広いほど、これまでのあなたがダラダラ過ごしていたことによる蓄積が多くなっているからです。
これでは、自分の部屋であるにもかかわらず、まるで部屋という空間に支配された奴隷のようなもの。
「したくもないのに、しなければいけない辛いこと」と、「いつもしていて楽ではあるけど、今してはいけないこと」とのはざまで苦しい時間を過ごすだけになってしまいます。

では、窓に向けて配置した場合はどうでしょうか。
こうすると目の前に外の景色があるため、どこか開放的で良いイメージがします。
しかし今度は、自分が今いる場所や今しなければいけないことから逃避して、外の世界へ出たいという欲求が起こるのです。
これも多くの方が経験済みだと思います。
「ドラえもん」の、のび太くんの部屋がちょうどこんな感じですね。
のび太くんは、自分の嫌いな宿題をどうしてもしなければいけないとき、机に頬づえをついて外を眺め、現実逃避します。
そして最後は、これまでの惰性で蓄積したダラけオーラに引っ張られ、畳に横になり、座布団をふたつに折りたたんで枕とし、マンガを読んでいたかと思ったら最後はお昼寝、というゴールデンコースをたどるのです。
のび太くんのような男性が社会的に成功し、お金の面でも心の面でも豊かになっていくステップを近々ご紹介しますが、これらの行動に共通しているのは、「部屋や自分を客観的に見ることが永遠にない」点です。
あくまで、非生産的な空間におけるひとりの被害者として、主観的かつ一方的な見方しかできなくなるのです。
自分や物事を客観的に見ることができない人は、社会において、また人間関係においても致命的です。
いつも目の前のことだけに意識が向いています。
これでは自分の人生を良い方向へ向かわせ、幸せになることも成功することもありえません。
話は少し変わりますが、
ミステリー小説では、「1ページ目に死体を置け」といいます。
その方が、読者もいきなりストーリーに引き込まれるからです。
このブログはミステリーではないので殺人現場から話が始まる、ということはありません。
しかし今お話ししているのは、ある意味「死んでいる人の話」と言えるでしょう。
何せ、何も産み出していないのですから。
正確に言うと、何の付加価値や奉仕も提供していないということです。
これでは、現代社会においては「死に体」と言われても文句は言えません。
さらに悪いのは、誰かに殺されたわけではないことです。
完全に自らの選択によって、せっかくの「自分で好きなことができる時間と空間」をムダにしてしまっているのです。
ドアも窓も閉まっています。
誰も出入りした形跡がありません。
なのに、母親(または妻・兄弟・姉妹)がドアを開けて見ると、部屋の真ん中、最も広いスペースの中央には、その部屋の主が大の字になって横たわっています。
片手にはスマホ、お腹の上にはマンガ本。
見ると、窓に向けて置かれた机の上には資格試験(学生であれば受験)のためのテキストが広げられたまま。
当然、テレビも照明もついたまま…。
大げさに言うと、これではまるで、「密室殺人」の現場です。
もっと言うならば、これが月に一度ぐらいならばまだいいでしょう。
いけないのは、頻繁に起こっている事件だということ。
いえ。
たいていの場合、まるで「連続密室殺人」になってしまっているのです。